《教えることの目標》

「相手の上達」が幸福感を生み出す

いま、「教える」という行為には人気がありません。
教えるという言葉には、どこかしら人を抑圧(よくあつ)し、管理するというイメージが染みついています。教えることで自由や個性が押さえつけられて、いまのような日本社会の停滞(ていたい)が生まれているという論(ろん)も多くなっています。
けれども、私は、そうは思いません。「教える」イコール「管理」というイメージは、下手な教え方をする人がいることによって、根付いてしまったものです。
そもそも、教えるということの目標は、教えられている側が「できるようになること」です。
その目標が達成されたときには、教えた側、教えられた側、双方に幸福感が生まれます。
なぜなら、人間にとって、できなかったことができるようになる、つまり「上達する」というのは限りなくおもしろいことだからです。教えられた側からすれば、自分に能力があることを実感でき、身につけた技で自分も楽しみ、人を喜ばせることもできる。こんなに楽しいことはないでしょう。
また、教えた側は。教えた相手に喜ばれることで、とても大きな幸福感を得られます。
ですから、まず最初に私が訴えたいのは相手がきちんと上達するような上手な教え方ができるのならば、「教える」ことは決して悪いことではないということです。
教えるということは、本来、教える側、学ぶ側ともに、幸福感を生み出す行為なのです。

上達のためには「練習」をさせろ

人に何かを「教える」にあたって、教える側は説明するだけで相手は聞くだけ、というスタイルには限界があります。話を聞いているだけでは、部下は決してできるようにならないものなのです。
部下の意識を高めるためには、当然、「説明」も必要です。しかし、部下を上達させるためには、「練習させる」ことが必要です。
練習をさせて、自分の知識や技を「移して」いくわけです。ですから、私は、教えることの中心は、練習メニューをやらせることにあると考えています。
教えるということの最終目的を「相手ができるようになること」だとすると、学ぶ側ができるようになったかどうか、これだけが教えたことの評価なのです。
上司がうまい課題を設定すれば、部下は課題がないときよりもむしろ生き生きしてきます。ですから、上手な課題を与える、使命感を与えるというのがポイントなのです。
使命感を持ったときに人間はいちばん生き生きしますし、充実感を持ちますから、なんとかできるものなのです。「自由にやってごらん」という人もいますが、自由に考えている時間というのは、私は実は無駄な時間だと思っています。それよりも、「とにかく答えを出せ!」「アイディアを出せ!」と強いミッションを与えるほうが、教わる側も充実します。
それが達成できたときの充実感、あるいは達成しようと努力している最中の充実感を与えることこそが「教える」行為なのです。