青年: ゴミを拾うのは「みんなのため」です。みんなのために汗をながしているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。だったらやる気も失せるでしょう。
哲人: 承認欲求の危うさは、ここにあります。いったいどうして人は他者からの承認を求めるか? 多くの場合、それは、賞罰(しょうばつ)教育の影響なのです。
青年: 賞罰教育?
哲人: 適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。褒めてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からも褒めてもらえなければ、憤慨(ふんがい)するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。
青年: 違います! 話を矮小化(わいしょうか)しないでいただきたい! わたしは教育を論じているのではありません。好きな人から認められたいと思うこと、身近な人から受け入れられたいと思うこと、これは当たり前の欲求です!
哲人: あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
青年: なんですって?
哲人: あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。
青年: い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です! 自分のことだけを考えて独善的(どくぜんてき)に生きろとおっしゃるのですか?
哲人: ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。
青年: 先生、あなたはやはりニヒリズムの毒に冒されている! 究極的には「わたし」のことを考えて生きている?それでもいい、ですって? なんと卑劣な考え方だ!
哲人: ニヒリズムではありません。むしろ逆です。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。