我々が「理性」と思っているものは、「感情」から生み出されている。
イソップ童話に「酸(す)っぱい葡萄(ぶどう)」として有名な話がある。
キツネが木の高い所になった葡萄を見て、おいしそうだなあ、どうしても食べたいなあ、と思っている。それで、ジャンプをしてみたり、木に登ろうとしてみたり、考えられる限りの手段で取ろうと試してみる。しかし、どうしても取ることができない。あきらめたとき、キツネは突然こう言う。「は!あんな葡萄。きっと酸っぱくて、おいしくないに違いない」
「おいしいに違いない」と信じたからたくさんの努力をしたのに、自分が取ることができなかったら、「おいしくないに違いない」と真逆のことを信じるようになったのである。その葡萄は、キツネの努力前後で何も変わっていないのにもかかわらずだ。
「おいしそう」と思うことは、「取ることができない」という現実には、都合が悪い。おいしそうなのに取れないのは苦しい。この居心地の悪さを、脳科学では「認知的不協和」と呼ぶ。脳は、認知的不協和を解消しようとして、葡萄のことを「取れなくてかまわないくらいにまずいもの」と思うようになるのだ。
我々は、キツネと同じように、「おいしそう」から「おいしくなさそう」へと、簡単に自分の信念を書き換えることがよくあると知られている。
たとえば、「何もかもが素晴らしい」と思った大好きな人に対して、自分の方を振り向かなかったら、「なんだ、あんな奴!」と思ってしまうことがそうだ。本当 は、その人が悪い人だったわけではなくて、自分が振られて居心地が悪いから「あの人は悪い人だ」と信じ込んでしまっただけなのかもしれないのだ。この時我々は、自分の信念を正当化するために、その人を悪者にしていい理由を積極的に探してしまいもする。すると、大抵何かしらは見付かるものなのだ。
つまり、正当性とは、本当に「ある」のではなく、自分の「この状態は嫌だ!」という感情に合うように、その場で「作られている」理屈なのである。