運の悪い人は、運の悪い人と出会ってつながり合っていく。やくざのもとにはやくざが集まり、へんくつな人はへんくつな人と親しんでいく。心根の清らかな人は心根の清らかな人と、山師は山師と出会い、そしてつながっていく。じつに不思議なことだと思う。“類は友を呼ぶ”ということわざが含んでいるものより、もっと奥深い法則が、人と人との出会いをつくりだしているとしか思えない。
どうしてあんな品の悪い、いやらしい男のもとに、あんな人の良さそうな美しい女が嫁いだのだろうと、首をかしげたくなるような夫婦がいる。しかし、そんなカップルをじっくり観察していると、やがて、ああ、なるほどと気づくときがくる。彼と彼女は、目に見えぬその人間としての基底部に、同じものを有しているのである。それは性癖であったり、仏教的な言葉をつかえば、宿命とか宿業であったりする。それは事業家にもいえる。伸びて行く人は、たとえどんなに仲がよくとも、知らず知らずのうちに落ちて行く人と疎遠(そえん)になり、いつのまにか、自分と同じ伸びて行く人とまじわっていく。不思議としか言いようがない。企(たくら)んでそうなるのではなく、知らぬ間に、そのようになってしまうのである。抗(あらが)っても抗っても、自分という人間の核をなすものを共有している人間としか結びついていかない。その怖さ、その不思議さ。私は最近、やっとこの人間世界に存在する数ある法則の中のひとつに気づいた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして、「出会い」が、ひとりの人間の転機と成り得よう。私の言うことが嘘だと思う人は、自分という人間を徹底的に分析し、自分の妻を、あるいは自分の友人を、徹底的に分析してみるといい。「出会い」が断じて偶然ではなかったことに気づくだろう。
私はときおり、たまらなく寂しいときがある。私には親友がいないという気がする。親しい友人はたくさんいるが、真の友はひとりもいないなと思う。小説を、ひとり書斎にこもって書いていると、寂しくて寂しくてどうしようもなくなる。そんなとき、私は突然電話魔になって、夜中だというのに友人に電話をかけまくる。そしてしょんぼりと愚痴を言ったり、反対に虚勢をはって威勢のいい演説をぶったりする。小説を書くのはもういやだ。俺はもう疲れた。俺は機械ではない。俺はからっぽの錆びたバケツだ。もう何も出てこない。もう生涯小説なんか書けそうにない。そういって駄々をこねたりもする。電話をかけられた方は迷惑千万である。じゃあ、俺が代わりに書いてやるよなどとはいえる筈がないのだから。そして電話を切り、しょんぼりと蒲団(ふとん)にもぐり込んで、私はいましがた電話をかけまくった相手のことを考える。すると、その幾人かの友人もまた、真の友を持ち得ぬ者たちであることに気づくのである。どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ。
宮本 輝 著