《酒田の本間家②》

 本間家二代目は光寿です。四十歳で原光から相続をしました。当時酒田には三十六人衆という組織があり、長人(世話方)として問屋衆の信望を集めていましした。

 また、庄内藩に米を献上し藩からは永代70俵の扶持ちを与えられることとなり、酒井家との関係が結ばれることとなりました。
光寿は教育にも熱心で、三代目光丘が19歳になると、取引先である姫路の奈良屋権兵衛に2年間修業に出しています。光丘にとってもこの2年間の修業は大変貴重な経験となったようです。また、本間家の特徴である《代人制》も、この時に生まれました。本間家では、厳格な《宗家主義》をとって宗家より繁盛したり、財政的に大きくなったりした場合には《義絶》により、縁戚の付き合いをやめています。このとき光寿は末弟の宗久を代人にして店の経営を任せています。

 本間家は大名貸しや農民・町民貸しで財を成していますが、光寿の考えた《座頭連判貸し》がそもそものスタートです。当時座頭は、按摩・鍼灸師などをやりながら高利で町民に金を貸していました。そのような座頭にたいして光寿は資金を貸していたのでしょう。

 光寿は、63歳でなくなっていますが、弟たち代人の協力のもとゆるぎない基盤を創り上げました。