投稿者「経営システム研究室」のアーカイブ

《あきらめない》

 勝つためには、負けることを恐れない姿勢が必要です。失敗を恐れていては、欲しいものを手に入れることはできません。
 ハリー・S・トルーマンは、こう言いました。
 「熱に耐えられない者は厨房に入るな!」
 失敗への恐怖心を克服すれば、ほかのすべての恐怖心が克服できたも同然です。反応を起こして目的を達成するためには、逃げ隠れせず、正々堂々と自分を試さなければなりません。そして、厨房の熱にひるまないだけでなく、求めるものに向かってそれを上回る情熱を燃やすのです。
 多くの人は、ゴールばかりに気を取られて、すべての結果を成功か失敗のいずれかで評価しようとします。しかし、あなたが失敗だと決めつけないかぎり、失敗という結果は存在しないのです。
 思いどおりの結果にならなかったとき、あなたにはそれを失敗と見ることもできれば、フィードバックと解釈することもできるのです。本当に失敗と呼べるのは、自分を信じることをあきらめてしまったときだけです。この世に、それ以外の失敗は存在しません。

《楽観的視点・悲観的視点》

 アドラーの大切な教えの一つに、「楽観的になる」ということが挙げられます。
 そのたとえ話として、アドラー心理学でよく取り上げられるのが『二匹のカエル』という話です。ここで紹介しておきます。

 二匹のカエルが、ミルクがたくさん入った壺の縁の上で飛びはねて遊んでいました。
しかし、誤って二匹のカエルとも、ミルクが入った壺の中へ落ちてしまいました。
 一匹のカエルは、「もうおしまいだ。自分がミルクに溺れて死ぬしかない」と、悲観的な気持ちになりました。
生きる意欲を失って、命が尽きることを覚悟したのです。
 しかし、もう一匹のカエルは、悲観的にはなりませんでした。
「どうにか脱出できるんじゃないか」と楽観的に考え、壺の中で飛びはねました。
すると、後ろ足が底につき、ピョンと飛びはね、壺の外に出ることができたのです。
 じつは、ミルクの部分は浅かったのです。
 ミルクのすぐ下は固形のバターになっていて、その固形のバターを足で蹴れば飛びはねることができたのです。

 このアドラーのたとえ話は、「どのような苦境に陥っても、『なんとかなるはずだ』と楽観的な気持ちを持ち、やるべきことをやっていれば必ず解決策が見つかる」ということを教えています。
 自分自身が悲観的な気持ちになって意欲を失ったら、本当にそこで終わりになるのです。
 楽観的に考えることが、自分自身を救う手段になるのです。

《名越先生のQ&Aから》

名越:  これはカウンセリングの師匠(ししょう)に昔聞いた言葉なんですけど、「うつというのは、心を車に例えて言うと、ブレーキを踏(ふ)みながらアクセルを踏んでいる状態なんだ」と。うつって、普通はエンジンをかけても心が動かない状態だと思うじゃないですか。でも実は、うつの人はものすごくアクセルを踏み込んでいる。ところが、同時にブレーキも思いっきり踏んでいる。だから、動けないままエネルギーはどんどん消費される、と。
しかし、これはうつの人に限らない。僕たちは日常の中で、確かにアクセルを踏んでいるんだけど、無意識にブレーキも2割ぐらいの力では平気で踏んでいるんです。それが例えば、ネガティブな気分に心がぼんやり支配され、集中力が落ちている時ですよね。たぶんそんな時、僕たちの頭の中は「自分は今、疲れている。だから、全力を出すなんて損だから、おざなりにしたほうが省エネになって得だ」というような思考のつぶやきが起きていたりするんですね。
ところが、実際はそうじゃない。ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいるのと一緒で、満足な結果も出せないし、すごくエネルギーを浪費(ろうひ)している。その上、もしかしたら、エンジンがヒートアップして、車自体を、つまり自分自身を傷つけているかもしれない。そっちのほうが実感として、僕は正しいと思っています。
でも、僕たちは潜在的(せんざいてき)に、素直になって渾身(こんしん)の力で挑(いど)むことをすごく恐れるんですよ。恐れるだけじゃなくて、もっと言うと、「頑張る」ことを嫌がる。それはなぜかと言うと、まさにブレーキを踏みながらアクセルを入れることを、僕たちは「頑張る」ことだと思い込んでいるからかもしれないんです。
ブレーキをフリーにして、アクセルを踏めばスッと走るのに、僕たちはあまりにその状態を経験していない。だから、それを「頑張る」ということだとは思えないんです。だいたい「頑張る」という感覚を持つ時は、「嫌なことを頑張る」というニュアンスになることが多い。
なるほど。だから「今、自分は心のブレーキを踏んでいる」ということが自覚できれば、そこから脚を外すことができるわけですよね。

名越:  そう。「心=車」の比喩(ひゆ)は面白いんです。だいたいアクセルは右側で踏みますよね。ブレーキは左側ですよね。これを意識、無意識とすると、右側のアクセルは比較的意識しているもの。そして、左側のブレーキを踏んでいるのは、かなり無意識的なんですよ。
だから、自分が無意識にブレーキを踏んでいる時、その瞬間を自分で捉えるのが一番大切。これはある種(しゅ)の能力開発が必要かもしれませんが、自分が一生懸命頑張ってもどこか力が出切らないと感じた時、「アクセルと同時にブレーキを踏んでいるんじゃないか」と思ってみることが第一歩だと思います。
ぼくが、自分がモヤモアした気分に覆(おお)われいると思った時、「とりあえず、目の前のことにちゃんと取り組もう」と思い直します。そうやって、自分がブレーキを踏んでいることに気づいただけでその瞬間に、かなりのブレーキが緩まります。行動を意識化するだけで、そこから心の持ちようが随分変わってくるんですよ。

なるほど。何より自覚することが、心のベクトルをポジティブに変える第一歩なんですね。

名越:  うつの人は、心が結構激しく揺れ動いている人が多いですね。その混乱を整理するためには、自分の心の状態をこまめに捉えて、その度にちょっとした正しい軌道(きどう)に戻してやることが、かなり有効なんですね。
そのためにも、「自分の心はどういう状態にあるのか」ということを、「今、ここ」の現場で気づくという経験が一番大事なんですよ。まずは、意識化、自覚の大切さを頭で理解してもらって、あとは現場でひとつひとつ実践してもらう。
こうやって、ちょこちょここまめに経験値を上げていけばいくほど、自分の心のメンテナンスを自分でやれるようになってくると思います。

《人を動かす》

シンプルですが、奥の深い言葉です

やってみせ、言って聞かせて、

させてみせ、ほめてやらねば、

人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、

任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、

信頼せねば、人は実らず。

山本五十六

《指示待ち量産?》

 「教える」こと、答を与えることが、人びとの動きを規制していくことについて述べる。
 その一は、そのことを「発見」するチャンス、正確に言えば「消化・発見」のチャンスを奪うことだということである。教えられてしまったことは永久に「発見」できないからである。教える方のニーズでそうした場合には、なおさらである。
 他から教えられるのと自分で発見するのでは、人間に対して逆な作用をもたらすことを記しておかねばならない。
 「消化・発見」と言うには程遠いありふれた話、私の体験の一(ひと)コマである。
 朝、私を起こしにきた妻がカーテンを開けながら、「7時よ、起きて。(庭の)椿が咲いたわよ」と言う。眠気まなこをこすりながら、私が「ああ、そう」と何とはない返事をすると、彼女は「感動がないわねぇ」と言うのである。そのしばらく後のことである。日曜日ともなると早く目を覚ます私が、朝食前に庭に出ると、花水(はなみず)木(き)の白い莟(つぼみ)が二つ、三つと目に入ってきた。食堂に戻った私は妻に「花水木が咲いたよ」と声をかけた。ところが、キッチンで朝食の支度をしていた彼女は、私に背を向けたまま、ただ「あら、そう」と言うだけなのである。
 私は「感動がないねぇ」とは言わなかったが、この違いはどこから生じたのであろうか。答はきわめて簡単明瞭、自分で発見したか、他から教えられたかにある。季節が来れば花は咲く。しかも莟(つぼみ)を見て、そろそろ咲くこともわかっている。こんなに当たり前のことでさえ、自分で見つけると、ささやかながら心が動いてしまうのである。
 「あっ、そうか!」と、たとえ些細(ささい)なことでも自分で発見すると、人間はじっとしていられなくなってしまうのである。心が動いてしまうのである。ことの本質だと思えるようなことを発見しようものなら、それこそ身震いすることになろう。

 その二は、「教えることは強制することとほとんど同じだ」ということである。これは山陽特殊製鋼会長の日渡惺朗氏の言葉だが、教えられた方は、その答しか知らないのだからそう思うより他にないわけだ。
 その三は、考えるチャンスを奪って、その結果として、「答待ち」「指示待ち」族を量産してしまうことである。この社会の大部分の人が、すでにそうなっているのではないかと思う。
 その四は、教える方のニーズによって教えられたものは、人びとの中で「知識抗体」と化してしまうことである。もちろん、「教える」がゼロでよいと言っているのではない。

《意味づけ》

あなたの身に起こるどんな出来事に対しても、あなたの好きなように意味付けができます。どんな意味付けをしてもいいのです。

意味付けがすべてなのです。
すべての人は、いつも2つの質問をしています。

「これはどういう意味なんだろう?」
「それについて、私は何をすべきだろう?」

多くの人は、その意味付けをネガティブにしてしまいます。そして、ネガティブにしてしまうことで痛みを感じてしまうのです。これがすべての問題の始まりです。
すべての痛みの感情は、ネガティブな意味付けからきています。
痛みの99パーセントではありません。100パーセントがそうなんです。

これさえわかっていれば、人生をマスターしたも同然です。

ハッピーという意味付けも、成功という意味付けもできます。
自分が達成したい目標をなんだって達成できます。
どんな目標だって達成できます。
すべての人生の経験をポジティブに意味付けできれば、好きな感情を得られますし、人生で成功できるのです。
悪い経験、嫌なことなんてありません。
たとえば、株式投資で失敗してほとんどの財産を失ったとしても、恋人に裏切られたとしても同じです。

私たちの人生の失意とは、出来事の解釈(かいしゃく)の結果なのです。
解釈というのは、その出来事が良いことなのか悪いことなのかを判断することです。痛みなのか、快楽(かいらく)なのか。
人生を効果的に生きるためには、どんなことが起ころうとも、自分を勇気づける意味付けをするのです。
たとえば、私が舞台に上がるとき転んでしまった場合、

「なんて恥ずかしい」

と思った場合は、快楽ですか?痛みですか?
転んだことをよい出来事と解釈するには、どうしたらいいでしょうか?
よい質問をするのです。

「この出来事の良い点はなんだろう?」
「この経験をどうやって生かせるだろう?」

良い質問は良いフォーカスを生みます。あなたは自動的に、出来事の良い面にフォーカスできます。

何があっても、良い解釈をするのです。

出来事そのものに意味はありません。あなたが意味を付けるのです。あなたはどんな出来事でも、ポジティブにもネガティブにも意味付けできるのです。
悲劇的な出来事に遭(あ)っても、そのことから人のために生きたり、より大きな幸せをつかむ人もいます。恵まれた出来事に遭っても、それが原因で傲慢(ごうまん)になってしまったり自分を失って大きな失敗をする人もいます。

自分自信が作る意味以外に、意味というのは存在しないのです。ですから、どんな出来事であっても、あなたの力で良い解釈はできるのです。自分自身で作る意味しか意味はないのです。

出来事はコントロールできません。しかし、あなたが出来事をどう意味付けするか、その後どんな質問をしたり行動を取るかは、コントロールできるのです。

選択の自由は、あなた自身のなかにあります。

《ローカス・オブ・コントロール》

 自分を正当に評価するためには、まず人と比べないことです。
 もちろん、健全(けんぜん)に比べるのであれば構(かま)いません。問題なのは自分より「できる人」と比較(ひかく)して、自分を卑下(ひげ)してしまうことです。
 人と自分を比べて落ち込み、「今」の自分に合わない高すぎる願望(がんぼう)や目標を持つことは、自信を形成するのにマイナス要素にしかなりません。
 同じように過去の自分と今の自分を比べることもやめましょう。
 「学生時代は、常にトップクラスの成績をおさめていた」
 「前の会社では、いつもトップセールスマンだった」
 「以前の自分にできていたことが、今の自分にはできない」
 こうした過去の実績と比べて、「今の自分は何てなさけないんだ」と自分を責める。これも本質的には「他人と比べて卑下(ひげ)する」のと同じことです。
 過去とは全て記憶です。いい体験にしろ、悪い体験にしろ、そのときの環境によって生み出されている部分が必ずあります。ですから、「過去と比べてどうか」ということに意味はありません。大事なことは、昔の自分ではなく今の自分にフォーカスすること。そして確実に小さな成功体験を積み上げていくことなのです。
 また、真のプロと呼ばれる人たちは、他者評価ではなく、自己評価の中に生きています。彼らは、周りの人がいくら認めても自分で認められなければ自信を持ちません。逆に他人が認めなくても、自分が正しいと思えることに自信を持っています。
 他者評価に一喜一憂(いっきいちゆう)している状態では、本当の意味で自信を獲得したとは言えないでしょう。
 真の自信は、人から何か言われても簡単に壊れるものではありません。
 自分がつくった作品に対して、他の人から「たいしたことないね」と言われても自分が、「すばらしい作品だ」と信じていれば自信はなくならないし、周りからどんなに「すばらしい」と絶賛(ぜっさん)されても、つくった本人が納得できなければ、自信は培(つちか)われません。
 もちろん、自分が「よくない」と思っていても、周りの人から「すばらしい」と認められて、「そうなんだ」と思える。そして、それが自信につながる。そうした段階もあると思います。
 しかし、最終的に大事なのは自分がどう感じるか、どう解釈(かいしゃく)するか。人が決めた現実ではなく、自分が現実をつくり出すことです。

《快適ゾーンとビリーフ》

私たちがそれぞれ持っている
「思い込みや考え方、価値観」の事をビリーフと言います。

過去に経験した出来事・体験・行動など通じ、自分の中で意味づけを行いながら、
価値観や判断基準が作られていきます。

人それぞれ持っているビリーフは、本人が思い込んでいることゆえ、客観的な真実ではなく、あくまで自分にとっての真実です。

もちろん、私たちは自分に対してもビリーフを創り上げていて、過去の経験などを元に、自分に対して

「自分は人見知りだ」
「自分は営業が得意だ」
「自分は運がいい・悪い」

などの意味づけを行なっています。

そして、そのビリーフの多くは、幼少期の体験から無意識に作られており、とても重要なビリーフとして、根強く私たちの行動を左右している可能性があります。

特にお金や人間関係、

そして人生に対してそれぞれ創り上げてきたビリーフの蓄積が、「今」のあなたや、「未来」の人生となって表れていくのです。

●知らないうちにあなたの成功を妨げる
“制限になるビリーフ”の存在に、あなたは気づいていますか?

多くの人が、もっと豊かな生活や人生を手にしたいと望みながら、自分自身でそれを阻む“無意識のバリア(制限になるビリーフ)”を抱えています。

もちろん、あなたも同様です。

このように言うと、いや、自分には制限なるビリーフなんてない、とおっしゃる方もおられますが、専門家として経験上、そういう方ほど心の深い部分に、ご自身を強く制限するビリーフを抱えている・・・。
そうしたケースをたくさん見てきました。

例えば・・・

「やっぱり自分は本番に弱いから失敗してしまったんだ・・・」
「仕事で結果を出すには、人よりもたくさん働かなければならない」
「自分には無理」

もしもあなたが、こうした制限になるビリーフを無意識に持っている場合、私たちの無意識は見事にその「ビリーフどおり」の結果を出してくれるのです。

意識上では「うまくいく」「自分はできる!」と思っていたとしても、です。

他のケースとしては、

もっとお金の自由を手にしたいと望み、お金に関する多くの勉強をしていたとしても、いつまでもお金に対するストレスがついてまわったり、望むような自由は手に入らない・・・。

その根本には、何かしらの、

「お金持ちは腹黒い」
「お金を手にするのは大変だ」
「自分はお金に恵まれない」

などのようなお金に対してのマイナスなビリーフ、「制限になるビリーフ」が妨げになっていることがよくあるのです。

それでは、

●自分には、どんな「制限となるビリーフ」があるのか?
多くの方が気になるところだと思います。

開発者であるティム&クリス・ハルボム氏によると、それを発見するヒントになるのが「感情」だといいます。

制限になるビリーフに係る問題や状況に直面した時に、不安や怒りを感じること、あるいは理由もわからず困惑したりイライラしたり、落ち込んだりすることがあるそうです。

以下にご紹介するチェックリストの中に、

あなたが「Yes」と思うものの他、不快感を与えたり、私には当てはまらないと“無理に言い聞かせようとするもの”があれば、それはあなたの「制限となるビリーフ」に触れているのかもしれません。

 何をやってもうまくいかない
 本当に欲しいものは手に入らない
 お金を稼ぐのは大変だ
 誰も認めてくれない
 自分自身を表現できない
 他の人が優先、自分は最後でいい
 私には魅力がないので、誰も私を愛してくれない
 良いことがあると、その後必ず悪いことが起きてダメにする
 傷つくのが怖くて、人間関係の中で安心することができない
 出る杭は打たれる
 私は孤独だ
 一度無理だったものは無理
 お金はいつも足りない
 裏切られるのが怖いから気を許せない
 やったことがないからできない

・・・など

《認知的不協和と正当化》

 我々が「理性」と思っているものは、「感情」から生み出されている。
 イソップ童話に「酸(す)っぱい葡萄(ぶどう)」として有名な話がある。
 キツネが木の高い所になった葡萄を見て、おいしそうだなあ、どうしても食べたいなあ、と思っている。それで、ジャンプをしてみたり、木に登ろうとしてみたり、考えられる限りの手段で取ろうと試してみる。しかし、どうしても取ることができない。あきらめたとき、キツネは突然こう言う。「は!あんな葡萄。きっと酸っぱくて、おいしくないに違いない」
 「おいしいに違いない」と信じたからたくさんの努力をしたのに、自分が取ることができなかったら、「おいしくないに違いない」と真逆のことを信じるようになったのである。その葡萄は、キツネの努力前後で何も変わっていないのにもかかわらずだ。
 「おいしそう」と思うことは、「取ることができない」という現実には、都合が悪い。おいしそうなのに取れないのは苦しい。この居心地の悪さを、脳科学では「認知的不協和」と呼ぶ。脳は、認知的不協和を解消しようとして、葡萄のことを「取れなくてかまわないくらいにまずいもの」と思うようになるのだ。
 我々は、キツネと同じように、「おいしそう」から「おいしくなさそう」へと、簡単に自分の信念を書き換えることがよくあると知られている。
 たとえば、「何もかもが素晴らしい」と思った大好きな人に対して、自分の方を振り向かなかったら、「なんだ、あんな奴!」と思ってしまうことがそうだ。本当 は、その人が悪い人だったわけではなくて、自分が振られて居心地が悪いから「あの人は悪い人だ」と信じ込んでしまっただけなのかもしれないのだ。この時我々は、自分の信念を正当化するために、その人を悪者にしていい理由を積極的に探してしまいもする。すると、大抵何かしらは見付かるものなのだ。
 つまり、正当性とは、本当に「ある」のではなく、自分の「この状態は嫌だ!」という感情に合うように、その場で「作られている」理屈なのである。

《チップの話》

ロバート・チャルディーニは、著書『影響力の武器』の中で、アメリカ在住のウェイター、ビンセントが、このテクニックを使ってチップの稼ぎを大幅に増やすことができた話を紹介している。
通常、アメリカのウェイターは、客にできるだけ高額のメニューを注文させようとする。彼らの賃金は、レストランから決まった額をもらうのではなく、客が支払う合計金額の何パーセントかをもらうことになっているからだ。つまり客の支払う額が高ければ高いほど、賃金も上がる。
しかしビンセントは、客に図々しく高額の料理を押しつけるのがいやだった。それよりも彼は、成功に結びつくはるかに繊細な行動をとった。
注文をとるとき、彼は少し前かがみになりこう言ったのだ。
「本当のことを申しますと、お客様がお選びになったお料理は、いつもほどよい出来ではないのです。それよりも、こちらかこちらの料理をお勧めいたします」
彼が勧めた料理は、客が最初に選んだものより少し安かった。ビンセントは、自分の利益よりも客の利益を優先させたように見える。しかしまさにそのことで、彼は客の信頼を得て、たっぷりとチップを受け取った。
おまけに、料理に合うワインと一番おいしいデザートを勧めると、客はどれも注文した!もしかするとその客は、ビンセントが勧めなければ、デザートやワインをまったく注文しなかったかもしれない。
つまり、誰かを相手に何かを達成したいときには、まず先に相手の利益になることをこっそり伝えておくといい。「これから秘密を打ち明けますよ」と予告することは、まさしく同じ行為である。
これでどうすればいいかわかったと思う。でも、これは内緒にしておいてください……。