投稿者「経営システム研究室」のアーカイブ

《今、ここにスポットを》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より

青年: いいですか、先生は原因論を否定されるなかで、過去をみつめることを否定しました。過去など存在しない、過去に意味はないのだ、と。そこについては認めます。たしかに過去は変えられない。変えられるとしたら、それは未来だけです。

しかしいま、エネルゲイアなる生き方を説くことによって計画性を否定し、つまりは、自らの意思によって未来を変えることさえも否定しておられる。

あなたは後ろを見ることを否定しながら、前を見ることまでも否定しているわけです。そんなものは、まるで道なき道を目隠ししたまま歩けといっているようなものだ!

哲人: 後ろも前も見えない、と?

青年: 見えません!

哲人: 当然のことではありませんか。いったい、どこに問題があるのでしょう?

青年:なっ、なにをおっしゃいます!?

哲人:自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してください。このとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。

われわれの人生もまったく同じです。人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここに強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

青年: 強烈なスポットライト?

哲人: ええ。われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証です。

人生は連続する刹那(せつな)であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪(めんざい)符(ふ)を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうあるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。

《自己肯定と自己受容》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より

哲人: たとえば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで本当の自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが

自己(じこ)受容(じゅよう)になります。

青年: 仮に60点だったとしても、悲観(ひかん)する必要はないと?

哲人: もちろんです。欠点のない人間などいません。優越性(ゆうえつせい)の追求について説明するときにいいましたよね?人は誰しも「向上したいと思う状況」にいるのだと。

逆にいうとこれは、100点の満点の人間などひとりもいない、ということです。そこは積極的に認めていきましょう。

青年: ううむ、ポジティブなようにも聞こえるし、どこかネガティブな響きも持った話ですね。

哲人: そこで私は、「肯定的なあきらめ」という言葉を使っています。

青年: 肯定的なあきらめ?

哲人: 課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と 「変えられないもの」を見極めるのです。われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。わたしのいう自己受容とは、そういうことです。

青年: 変えられるものと、変えられないもの。

哲人: ええ。交換不能なものを受け入れること。ありのままの「このわたし」と受け入れること。そして変えられるものについては、変えていく

〝勇気”を持つこと。それが自己受容です。

《言い訳として》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より

青年: もう先生もお気づきでしょう。まず挙げられるのは、この性格ですよ。自分に自信が持てず、全てに対して悲観(ひかん)的になっている。それに自意識過剰なのでしょう。他者の視線が気になって、いつも他者を疑いながら生きている。自然に振る舞うことができず、どこか芝居じみた言動になってしまう。そして性格だけならまだしも、自分の顔も、背格好も、どれひとつとして好きになれません。

哲人: そうやって短所をあげつらっていくと、どんな気分になります?

青年: まったく底意地(そこいじ)の悪い御方(おかた)ですね!それは不愉快になりますよ。まあこんなひねくれた男となんて、誰も付き合いたくないでしょう。わたしだって、身近にこんな卑屈(ひくつ)で面倒くさい男がいたら御免こうむります。

哲人:なるほど、もう結論が見えてきましたね。

青年:どういうことです?

哲人:ご自身の話でわかりにくければ、別の方の例を出しましょう、わたしは、この書斎で、簡単なカウンセリングもおこなっています。そしてもう何年も前の話になりますが、ひとりの女学生がやってきました。ええ、ちょうどあなたが座っている、その椅子です。

さて、彼女の悩みは赤面症(せきめんしょう)でした。人前に出ると赤面してしまう、どうしてもこの赤面症を治したい、といいます。そこでわたしは聞きました。「もしもその赤面症が治ったら、あなたはなにがしたいですか?」。すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。密(ひそ)やかに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。赤面症が治った暁(あかつき)には、その彼に告白してお付き合いをしたいのだ、と。

青年: ひゅう!いいですね、なんとも女学生らしい相談じゃありませんか。意中の彼に告白するには、まず赤面症を治さなきゃいけない。

哲人: はたして、ほんとうにそうでしょうか。私の見立ては違います。どうして彼女は赤面症になったのか。どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面という症状を必要としている」からです。

青年: いやいや何をおっしゃいますか。治してくれといっているのでしょう。

哲人: 彼女にとって、いちばん怖しいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。ところが、赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって…」と、可能性のなかに生きることができるのです。

青年: じゃあ、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られたときの保険として、赤面症をこしらえていると?

哲人: 端的にいうのなら、そうです。

《経験に与える意味》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より

青年:目的にかなうものを見つけ出す?

哲人:そのとおりです。アドラーが「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する、と語っているところに注目してください。たとえば大きな災害に見舞(みま)われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによって何かが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

青年: じゃあ、先生はわたしの友人が好きこのんで自室に閉じこもっているとでも?自ら閉じこもることを選んだとでも?冗談じゃありません。自分で選んだのではなく、選ばされたのです。今の自分を、選択せざるをえなかったのです。

哲人: ちがいます。仮にご友人が「自分は両親に虐待を受けたから、社会に適合できないのだ」と考えているんだとすれば、それは彼のなかにそう考えたい「目的」があるのです。

青年: どんな目的です?

哲人: 直近としては「外に出ない」という目的があるでしょう。外に出ないために不安や恐怖をつくり出している。

青年: どうして外に出たくないのですか?問題はそこでしょう。

哲人: では、あなたが親だった場合を考えて下さい。もしも自分の子どもが部屋に引きこもっていたらあなたはどう思いますか?

青年:それはもちろん心配しますよ。どうすれば社会復帰してくれるのか、どうすれば元気を取り戻してくれるのか、そして自分の子育ては間違っていたのか。真剣に思い悩むだろうし、社会復帰に向けてありとあらゆる努力を試みるでしょう。

哲人: 問題はそこです。

青年: どこです?

哲人: 外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親が心配する。親の注目を一身に集めることができる。まるで腫(は)れ物に触るように、丁重に扱ってくれる。

他方、家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまいます。見知らぬ人々に囲まれ、凡庸(ぼんよう)なるわたし、あるいは他者よりも見劣(みおと)りしたわたしになってしまう。そして誰もわたしを大切に扱ってくれなくなる。…これなどは、引きこもりの人によくある話です。

《城づくりの名人》

徳川(とくがわ)家康(いえやす)は、慶長(けいちょう)11年(1606)、江戸城の増築工事を、諸大名に命じた。
大名にとっては、その労力と費用を、無償で提供しなければならないから、たまったものではない。自分に割り当てられた部分を、いかに速(すみ)やかに終えるかが、経費の負担を大きく左右する。
この工事で、後世への教訓となる事件が起きた。
桜田から日比谷(ひびや)にかけての石垣造りは、加藤(かとう)清(きよ)正(まさ)*(熊本城主)と、浅野(あさの)幸長(よしなが)*(和歌山城主)に命じられた。
加藤家では、建設現場に沼が多いことを確かめると、まず、付近の山野から、カヤ*を刈り取ってくるように指示を出した。
毎日、大量のカヤが運びこまれてくる。それを次々に沼へ投げ込んでいくのだ。さらに土をかぶせて平坦なグラウンドができ上がると、今度は、10歳から14歳くらいの子供を大勢集めてきて、思う存分、遊ばせた。朝から夕暮れまで、大人も交じって、笛や太鼓をたたき、踊ったり、歌ったり、大変な騒ぎが、何日も続いたのである。

一方、隣の浅野家は、沼を埋め立てたら、すぐに石を積み始めた。
工事は至って順調である。
石垣が半分以上でき上がるころになっても、加藤家の持ち場には、石さえ運ばれてこない。子供たちを遊ばせているだけなので、浅野の家臣は、
「一体、何を考えているのか。もっと真面目にやれ!」
と、あざ笑っていた。
加藤家の現場監督は、子供たちに踏み締められて、十分に堅くなった地盤を確かめてから、ようやく石垣を築き始めた。
当然ながら、完成したのは、浅野家よりも、ずっと後だった。

間もなく、江戸を台風が襲った。すさまじい暴風雨である。
この大雨で地盤が緩み、浅野家が築いた石垣は、何ヶ所も崩れおちてしまった。だが、慌(あわ)てず、急がず、じっくり基礎を固めてから築いた加藤家の石垣には、少しも損傷はなかった。
基礎をおろそかにした浅野家は、かえって修復工事に莫大な経費を投ずることになってしまったのである。
この教訓は、江戸時代を通じて、長く語り継がれることとなった。

*加藤清正(1562-1611) 安土桃山時代の武将 尾張国(現在の愛知県)の生まれ
*浅野幸長(1576-1613) 安土桃山時代の武将 近江国(現在の滋賀県)の生まれ
*カヤ 屋根をふくのに用いる草の総称

《苦闘を大切にする》

ある日、少年が外で遊んでいると、木の葉にまゆが付いているのが見えた。少年はそのまゆを部屋に持ち帰った。数日後、チョウがまゆを破って外に出ようと苦闘し始めた。長くて厳しい戦いだった。少年にはチョウがまゆの中に閉じ込められているように見えた。チョウの動きが止まったことを心配した少年は、ハサミでまゆを切ってチョウを助け出した。
しかし、そのチョウは翼を広げて飛ぶことができず、ただ這い回るだけだった。本来なら、まゆの小さい穴から苦闘しながら出ることによって体液が翼にまで行きわたり、チョウは飛べるようになるはずだったのだ。
この教訓は私たち人間にもあてはまる。人生は苦闘の連続だが、もし苦闘しなければ、私たちは本来の強さを発揮することができなくなる。苦しい思いをするのは誰でも嫌だが、苦闘は成長の機会でもある。自分の人生を切り開く人は、逆境が人格を鍛えることを理解し、苦闘を歓迎する。
ほんの少しの努力で成し遂げられることばかりしてきたなら、あなたは今以上に成長することはないだろう。チョウの苦闘が翼に強さを与えるのと同じように、あなたの苦闘も強さを獲得するうえで必要なのだ。
成否の分かれ目は、ピンチの瞬間に来る。困難に直面したとき、あなたは前進し続けなければならない。そうすることによって初めて、挫折を乗り越えて飛躍する能力が発揮できるのだ。

《思い込みの壁》

サーカスのゾウは、ロープで杭につながれてじっとしている。杭を引っこ抜くだけの力を持っているのに、なぜその力を発揮して逃げ去らないのだろうか?
答えは簡単。
「自分にはたいした力がない」と思い込んでいるからだ。
ゾウは子どものころ、鎖で杭につながれて毎日を過ごす。小さいのでたいした力がなく、杭を引っこ抜くことができない。ゾウは大きくなってからも、その思い込みにとらわれ続ける。調教師はそれを知っているから、鎖のかわりにロープを使ってゾウを杭につなぎとめる。大きなゾウにとって、杭を引っこ抜くくらいたやすいはずだ。しかし、ゾウは「自分には大した力がない」と思い込んでいるから、何もせずにじっとしている。
これは人間にもあてはまる。「自分にはたいした力がない」と思い込んで、平々凡々と人生を送っているからだ。多くの人は自分で限界を設定し、本来の力をぞんぶんに発揮できずにいる。
あなたには非凡な能力がある。それを発見して伸ばすことが大切だ。「自分にはたいした力がない」という思い込みから自分を解き放とう。発明王エジソンは「もし人間が自分にできるすべてのことをしたなら、自分でも驚嘆するほどの偉業を成し遂げられる」と言っている。
あなたは素晴らしい可能性を秘めている。ゾウが巨木を引っこ抜く力を持っているのと同じように、あなたも非凡な能力を持っているのだ。その事実に気づけば、自分を信じることができる。それは山をも動かす強い力となる。

《レッテルはがし》

 イソップ物語では、油断大敵、ウサギの慢心(まんしん)、カメの頑張り、こういうところで終わるわけですが、ウサギの人生はそこで終わったわけではありません。まだ始まったばかりなのです。
 ともすると、ウサギに貼られた「レッテル」、カメとの競争の過程でイソップがつけた「レッテル」、それ以外にもご丁寧にウサギのダメなところを、これでもかと言わんばかりに、後生(こうせい)のお利口さんたちがつけた「レッテル」で、ウサギを見てしまいがちです。
 「ああ、ウサギね」
 「ウサギのことなら知っているよ」
 「しょうがないよ、ウサギだから」
 「ウサギ、イソップ、月で餅つき」
 一度レッテルを貼られると、悪いことに本人も、周りも先入観を持ってみるようになります。どのウサギもカメをからかって、それから昼寝している。それ以外のウサギはお月さまで餅をついている。
 現実にはそういうウサギは一匹もいないのですが「レッテル」を貼られると、あたかもそうであるかのように思われるものです。

 問題なのは本人もそう思い込んでしまうところです。最初に教えておかなくちゃ。ウサギは月で餅なんてついていないし、あれっきりカメと競争なんてしていないということを。
 それから誰かに貼られたレッテルなんて、とっとと剥(は)がしていいんだということを。そんなものファッションでも何でもないんだから。

《現場を大切にする》

車を買い換えようと思い、いろいろ比較検討しています。
とある外車ディーラーで見積もりをお願いしたところ、ずいぶん待たされました。
20分くらい待たされた後、営業マンが携帯片手に現れました。「見積もりを出すために携帯から情報を送らなければならないのですが、なんか電波の入りが悪くて・・・」これは店舗での話です。
「店舗に端末置いてないんですかー?」(心からビックリした顔の私)
「何ででしょうかね。そういう現場への投資はしないみたいなんですよ・・・」(あきらめ顔のセールスマン)
業種・業界を問わず、顧客との接点たる現場が「最も大切な場所」のはずです。現場が虐げられるようなことをしてはいけません。ちなみに、ここで言う「現場」とは顧客への価値提供を直接行なっているところを指しています。単なる作業場のことではありません。
20年ほど前に、[真実の瞬間](ヤン・カールソン著、ダイヤモンド社)という本の中に「逆さまのピラミッド」というフレーズがありました。組織図を書くと、現場が最下位になることが多いが、それは間違い。顧客の接点たる現場こそ、ピラミッドの最上位にくるべきだ、というその主張は、いまも真実です。
意思決定のレベルや、組織内での影響力、仕事の複雑さ、求められる知識などの面で、「現場」のスタッフよりも管理者の職責のほうが大きいので、報酬水準が高くなるのは仕方ありません。逆に言うと、現場の方々の給与は相対的に低くなります。
しかし、だからといって、現場の人々を大切にしないことにはなりません。むしろ、低い報酬で価値を創造していただいていることに、感謝すべきとさえ思います。
現場の人たちを、単なる代替可能な安い労働力と捉えた瞬間から、自ら価値創造の源泉を傷つけていることになります。
いかに、現場の方々が生き生きと仕事ができるような環境を創り出すか、これが組織の長の役割だと思います。

《報告責任とは》

仕事を教える中で徹底しておきたいのが、責任の所在です。
うまくいけばいいが、失敗したら誰が責任を取るか、それが明確でないとなりません。
それには、責任という範囲の広い言葉を明確にする必要があります。責任は3つに分けられます。そしてそれぞれについて、上司・部下のどちらの責任か明確にしておきます。

① 結果責任は上司
② 遂行責任は部下
③ 報告責任は部下

これが徹底されていれば、次の通りになります。
上位から見れば、部下は決して途中で投げ出さないし、報告はきちんとするという条件付きで、結果責任は自分にある。これなら上司も納得できるでしょう。逆に、部下からすれば、自分が投げ出さずにちゃんと報告をしていれば、仮にうまくいかずとも、上司が責任を取ってくれるという安心感がある。これで、前向きに新しい案件にも取り組めます。
部下が一番嫌い恐れることは、「進めてもいいよ」と言いながら、うまくいかなかったときに「なんでそんなことをしたのか」と言い出す上司です。しかしこの原則では、そういう無責任が通せないのです。
本来は、部下が途中で投げ出したり、報告をしなかったりすることで、その仕事が失敗したとして、それは上司の責任です。こういう場合、「どうして、こいつのために私が責任を・・・・・・」と腹立たしい気持ちになりますよね。しかし、部下が「投げ出さないこと」と「報告をしっかりすること」を約束するのであれば、責任は負えるでしょう。
現実的には、「報告をしっかりすること」を守らせるのが重要です。
これが徹底さえしていれば、途中で軌道修正もできます。ちょっと頼りないと思えば、「これは任せるが、毎日の進捗状況を報告してほしい」と言えばいいのです。
どのような報告を求めるかは次に説明します。
「教え方の教科書より」