コーチング」カテゴリーアーカイブ

《指示待ち症候群》

「指示待ち症」の症状は、二つの面に現れる。

一つは「言われないと動かない、動けない」ということ。
もう一つは「言われたら動く、その通りに動く」ということである。街角でたばこの新製品を配る若い娘さんの話は、言われた通りに動く典型例だと思う。同じ朝日新聞に似た投書がまた載った。
ピカピカの新車が来た。さっそくガソリンスタンドへ給油に行ったら、元気のいい女の子が「いらっしゃいませ! 満タンですか」。ハイ。すると今度は「洗車はいかがですか」。
私がこれに見るものは、やはり彼女の忠実ぶり、つまり、他から言われたその通りに動くということである。
こんなことでは果てしない悪循環にはまり込んでしまうということを、頭では知っていながら、事態を打開しようとは動かないのである。いたしかたなく、こちらから誘い水を向けることになってしまうのが毎回である。
言われるとその通りに動く人、与えられた条件の枠内でだけ動く人が多くなる一方で、それを越えて何とかしよう、そこから脱出せねばと動く人は俄然(がぜん)少なくなってきている。

《他者依存症》

 「世話」をやくことが、人びとの動きを規制していくことについて述べる。
 その一は、世話をやく云々(うんぬん)はどうでもよい話のようだが、これまた人びとをしてその主体性の邪魔をし、他者依存症を作り出す方へと作用するということである。
 世話とは「その人自身の力ではできないことを、力・知恵などを貸して助けてやること」だと辞書にあるが、この社会では、その人自身が頑張れば出来る事に、口出し、手出しをしている場合があまりにも多い。まさに、大人への過保護、過干渉と言うべきか。それを親切だと言う人の方が圧倒的に多いのだが。
 この冬1月の東京の大雪の日のNHKテレビの天気予報では、「明朝は余裕をもってお出かけください」としきりに言っていたが、こんなことまで言われないと、自分では考えられないということなのだろうか。
 世話をやくことが主体性の邪魔をする程度は、子供に対するよりも大人の場合の方が大きいと思う。子供の場合はまだ、人間の本性をかなり残しているので過保護、過干渉に対しては抵抗することが多いが、大人ともなると、ずるさも手伝ってか、これ幸いに受け入れて楽な方へと流れていってしまうからである。
 したがって、世話やきが組織体質となっているところでは、他者依存症の集団発生が起きてくることになる。
 その二は、世話をやくことは、指示するのと同類項でもあるということである。
 世話をやくとは「すすんで他人の為に尽力する」ことと辞書にもあり、なるほど外からはそう見えるし、本人さえもその気分なのかもしれない。ところがこの人たちの動きをよく見ていると、真意のところではこれが逆転しており、世話をやくのは自分の満足のためであって、結局は、自分が是(ぜ)と思うように部下を動かそうとしているのではないか、と思われてくるからである。

《限界はあるのか》

仕事やスポーツで「限界」という言葉を使ってしまうことがありますが、本当に限界はあるのでしょうか。
もちろん一生懸命に努力しても、成果が現れないことはあります。それでも諦めずに目標に向かって努力している間は、「限界」を意識することはないように思います。
私は高校時代、日々卓球の練習に明け暮れていました。優勝を目指し、厳しい指導を受けながら練習するなかでは「限界」を意識することはなく、常に「もう少し頑張れる」という気持ちがありました。結果として優勝出来なかった時も、「次回は優勝出来るよう頑張ろう」と、さらに練習に励んだものです。
仕事やスポーツだけでなく、さまざまな事柄に対して「出来ない理由」を探して諦めることは出来ます。反対に、「もう少し出来る」と、努力し頑張ることも出来ます。どちらも、自分の心が決めること。望んでいた結果が出なくても、その努力した時間が大切だと思います。
もう無理かなと思った時に、「限界」だと諦める心。それでも「もう少し頑張れる」と努力する心。どちらも決めるのは自分自身ですが、「限界」を決めず努力することが成長につながるのではないでしょうか。
一度きりの人生、限界を決めずに前向きに生きていきたいものです。

株式会社 ダスキン
会長  山村 輝治

《イメージ化》

イメージできる目標を設定することが重要である最大の理由があります。
それは、「人はイメージで生きている」からです。
「それってイメージできないんだよね・・・」
「これって私のイメージ通り!」
私たちは日常の中でも、「イメージ」という言葉を頻繁に使います。
人はイメージできることを好み、それに向かって前進する傾向があります。反対に、イメージできないことには消極的で、自分のイメージと違うものは遠ざける傾向があるのです。
例えばあなたのご自宅が最寄りの駅から徒歩10分圏内とします。当然、難なく最寄り駅へ歩いていけるハズです。難なく歩いていける理由は、駅までの道のりの映像や絵を視覚的に捉えているからです。
では、目隠しをして駅まで歩いていけますか?おそらく、それは難しいでしょう。
つまりは、視覚的イメージ(映像や絵)が遮断されると、前に進めなくなるわけです。
ではなぜ、目の不自由な方たちが街中を歩行できるのか、あなたはご存知でしょうか?
以前、目の不自由な人が、杖や点字などを通じて得た情報を脳内で自分が知っている映像や絵に変換し、そのイメージで、動いたり感じたりしているとおっしゃっていました。
また、以前テレビで、エコーロケーションというのを知りました。目の不自由な方が自らの舌で「テュッテュッ」というような音を鳴らして、その音が反響するタイミングや響き方によって、自分が今いる空間を脳内に映像として瞬時に変換するのだそうです。
これらの話から、イメージの重要性について、ご理解いただけたのではないでしょうか。
やり抜くためには、まずやり抜いたあとのイメージを明確にしてからスタートしないと、健常者がまるで目隠しして駅まで辿り着こうとする行為と同じようになるのです。

《些細な点にこそ意識を》

「象のお母さんには二頭の子どもがいます。ジェイソンとケビンです。お母さん象の名前は何!」

このなぞなぞを、もう一度よく読んで考えてみてほしい。小難しい知識など必要ない。ヒントはすべてこの三文の中に書かれている。どうだろう、おわかりだろうか?

これは「予想」と「慣れ」、そしてその結果引き起こされる「知覚」を利用したひっかけ問題だ。

文の最後をよく見てほしい。文末にあるのは「?」ではなく「!」だ。つまりこの文は、僕らの予想に反して、質問ではないのだ。そう考えて文字通り読めば、お母さん象の名前は「何」である。

まあたしかに、一般的な名前ではないし、素敵な名前ともいいがたい、それは認めよう。だが、大事なのはそこではない。重要なのは、こうした些細な点にいかに意識を向けるかだ。このなぞなぞと同じように、身体言語とボディー・リーディングでは、すべてのヒントは目の前にある。相手は自分の本心をあらゆるシグナルによってあなたに伝えているのだ。あとはあなたが、どこに「注目すべきか」を知るだけでいい。そうすれば相手の心を読むことはずっと簡単になる。

《ビリーフを変える》

では、どうすれば「自信がない」が変化するのでしょう?これは、自分のことをもっと信じることができるように、頭のなかからネガティブな声をなくしていくことで変化させることができます。
よくスポーツアスリートは試合に勝つために、自信をもてるよう、このようなメンタル面でのトレーニングを行いますが、同じような方法をやっていけば変えることができるのです。
まず、あなたが「これだな」と特定した言葉を思い浮かべてみてください。
例・・・「私はいつも自信がない」
この言葉を思い浮かべたとき、何か身体のなかで感じるものはありますか?
「胸が重くなる」「モヤモヤした気持ちになる」など、身体のどこかで何かしら感じるものがあるでしょう。身体のどの部分にその気持ちがあるか、特定してみてください。
そのイヤな感情と声を全部身体の外に出してみましょう。あくまでイメージでよいので、ぜーんぶ外に出すつもりで、手も使って内から外に出してみてください。
出できたものはどんなふうに見えますか?
映画のような映像の人もいれば、何か丸い、黒い重いもの、などのイメージの人もいるでしょう。どんなふうに見えてもOKです。出てきたものを3mぐらい遠くに軽くポーンと投げてみましょう。これで自分から遠くなったので、ちょっと楽になったのではないでしょうか。
出てきたものは、ずっとあなたの頭のなかに記憶され、無意識にあなたの考え方に影響を与えていましたが、実は、ずっともっていたことで、あなたを助けていた部分もあるのです。
たとえば「『自信がない』と思っていたからほかの人よりももっと努力してがんばれた」
「自信がないからダメなんだ、と自分自身が苦しくならならいように言い訳に使えていた」のように。
大切なことは、今までの自分の考えを頭から否定しないことです。「自分がずっと思い込んでいたことは、小さいころの自分には必要な考え方だった」というように、「今まではこれがあってよかったこともあったんだね」と認めていきましょう。
ただ、これからは、その考え方はあなたには必要がないはずです。手放して、もっとあなたにプラスになるものに変化させていきましょう。
遠くに投げたものは、どちらかに回転をしているはずです。どちら回りに回転しているでしょうか?「もし、回転しているとしたら、どっちに回っている?」と考えてみるとわかります。それをいったん止めて、反対方向に回してみてください!
それは、どんどん速く回転し、どんどん昇っていきます。どんどんどんどん回転すると、パンっと破裂して、粉々になります。そして、違う形に変わり、あなたがとても自信がもてるようなプラスのものをもって戻ってきてくれるでしょう。「自信」「できる」「大丈夫」といった言葉の人もいるかもしれませんし、キラキラしたダイヤモンドのような形に変わった、と言う人もいます。それをあなたの身体のイヤな感情があった場所に戻して、身体全体に十分いきわたらせるようイメージしてみましょう。

《情報は両方の意見を》

話半分に聞くという他に大切なのは、「両方の意見を取り入れる」というスタンスです。ともすれば偏りがちな情報収集ですが、そこをあえて対極の二情報を取る、というわけです。
インテリジェンス(謀報)の世界では、この手法があたりまえのように使われます。複数の情報を取る際、あるテーマに対してイエスと言っているものとノーと言っているものを必ず取り入れる、つまりそこに考え方や価値観のバイアスをかけない、収集した情報は時間をかけながら納得のいくところで判断するという手法です。
時間が経てば情報の「質」が変化する、という事実も忘れてはなりません。
情報の質が変化するというのは、その情報に対する信頼度が上がったり下がったりする、ということです。一年前は誰も信じなかったものでも、今現在は大勢に信じられている、逆に信じていたものが何らかの出来事によって信じられなくなる、ということはよくあります。
それは、時間の経過とともにそのテーマを取り巻く材料が増えることで、情報をチェックする精度(確度)が上がるからです。本当は歴史の信憑性(しんぴょうせい)に対しても、もっと疑ってかからないといけません。日本史の教科書からさまざまな武将の肖像画が消えたのも、別人がモデルであったなど新しい情報が次々と出始めた結果です。
逆に、ある情報が時間をかけて刷り込まれると、それは動かしがたい常識となります。歴史を、当時の時代背景を無視して、意図的に現代の観念でとらえて印象操作したり、事実の一部のみを強調したりして史実を歪ませるのは常のことです。
そういう情報をチェックしようとせず、ある方向から一方的に情報を流すマスメディアにはいくつかの問題があります。新聞やテレビなどのマスメディアが報道しているからといって、その情報をそのまま受け取るのは大きな誤りです。
そもそもマスメディアは、営利目的の企業だという事実を忘れがちです。
社会正義や国民目線など心に染みるような美辞麗句をマスメディアは並べますが、第二次世界大戦の際にすべての新聞社が戦争を煽(あお)った事実は記憶に残さないといけませんし、広告スポンサーや多くの圧力団体の意向には逆らわない、むしろその意向で読者や視聴者を扇動しようとすることが多い「マスメディアの構造」を頭に置きつつ、一つひとつの情報を精査すべきなのです。
これがメディアリテラシー(情報活用能力)の本質です。
その情報が本当に自分にとって有益な情報なのか、そこに気持ちの悪さや居心地の悪さを感じたりはしないか、他人事(ひとごと)ではなく自分事として感じながら複数の情報をチェックすることが大切です。日本は欧米と比べてこの部分が遅れており、今後の強化課題です。

《精一杯やってみる》

心配という言葉の本質は意外とわかりにくいものです。
人や周囲へ心を配るという良い面もあれば、自分や誰かの心を心配するという悪い面もあります。不安、不信、気がかり、悩み、こうしたマイナス要素を帯びた言葉と同じように、心配という言葉はどちらかと言えばネガティブな使い方が多いものです。
私たちが心配する状況は、主に次の三つの要素に分類されます。

①結果がわからないこと
②悪い結果が予見できてしまうこと
③その悪い結果を自分がコントロールできないこと

これは医師や医療スタッフにも当てはまりますし、もちろん患者さんや家族にも当てはまります。想定内の結果が見えていれば、「心配しないで大丈夫ですよ」と声をかけることで本人の心配は拭われます。
自分がコントロールできない背景には、「努力していない(足りない)」ことの他に「努力しても届かない」ことがあります。仕事でミスをする、難度の高い仕事ができないというのは前者ですが、経済が好転しない、天変地異が起こるというのは後者です。
大切なのは、自分がコントロールできないことは心配しないことです。どんな世界に身を置くにせよ、必須の条件です。要は、開き直る、思い切る、ということです。もういいやと思えば、対処していることの質が変わります。あれほど悩ましかったことが、実は大したことではなくなることも多いのです。何とかしよう、うまくやろうとすると、心配の度合いはどんどん上がります。
医療のプロである医師にも共通した心配事があります。

《適度な課題を》

 ポイントは、学校や塾で課題を吟味して出してもらうことであろう。本人の能力に合わせ「わかる問題」を七~八割、残りを「努力が必要な問題」に配分する。
 どうせできないから、と全部優しい問題にしたり、逆に本人の能力以上の難しい問題ばかりを並べないことだ。前者だと「自分はバカだと思われている」と考えて、後者だと問題が解けないのは「自分がバカだから」と思い込み、いずれにしても無気力になる。
 また正答が得られないときには「もうひと頑張りだったね」と、本人の「能力」でなく「努力」に原因帰属をする。能力に比べ努力は自分の力で変えやすいため、「頑張ってみる」と再挑戦に意欲を燃やしやすい。
 また人間は興味や関心のあることに「何だろう?」と目を輝かせる。探究反射を基に学習を組み立て、それも相手の能力に合わせ適度な課題を選んで与える。満腹時には食欲がわかないように、課題が多すぎると意欲が減退してしまう。
 このように、学習効果を上げるには、しつけや励ましよりもスモールステップを組み、少しの努力で結果が手に入るようにしたい。成就感が次への何よりの動機づけになるからだ。
 ノックの名手は手を伸ばして捕れるかどうか、ギリギリの位置にボールを打ち続けるそうだ。すると選手は必至で球を追い、捕球回数が増えるにつれ、さらに頑張るという。

《リフレーミング》

 必要性の除法助動詞は必要を表わし、次のような単語が使われる。・・・べきだ(should)、・・・べきでない(should not)、・・・ねばならぬ(must)、・・・してはならぬ(must not)、当然・・・である(ought)。当然・・・ではない(ought not)。
 ある一定の行動の規範が存在するのだが、それがはっきり示されていない。その規範を破ったら結末は(現実であれ空想であれ)どうなるのか? それが次のような質問で明白になる。

 「もし、貴方がそうしたら、または、しなかったら、どうなりますか?」

 「私はいつも他の人を優先させなければならない」

 「もし、そうしないとどうなりますか?」

 「教室ではしゃべっていけない」

 「もし、しゃべったらどうなりますか?」

 「私はこのメタ・モデルの分類を覚えなければならない」

 「もし、そうしないとどうなりますか?」

 「あの連中と話しちゃならねえ」

 「話したらどうなる?」

 「お食事の前には手を洗うのよ」

 「洗わなかったどうなるの?」

 一度こういった結末や理由がはっきりすると、考え直したり、批判的に評価したりできるのであるが、さもないと選択と行動の自由が制限されてしまう。

 行動の規範は言うまでもなく大切である。そして、社会の道徳的な約束によって成り立っている。しかし、「貴方は商取引において正直であるべきだ」というのと、「貴方はもっとたびたび映画を見るべきだ」との間には天と地の差がある。「・・・べきだ」と「・・・べきではない」にはそれに値しない道徳的判断がしばしば混入する。

 いろいろな発見は、「もし、・・・したらどうなる?」と問うことによって初めて可能だ。

 ・・・西へ西へと航海したら? ・・・光速で移動できたら? ・・・ペニシリンを増やしたら? ・・・地球が太陽を巡るとしたら? ・・・こういった質問が科学的方法の基礎である。