この話をすると私が今後営業しづらくなるので、ホントは誰にも教えたくなかった話なのですが、とても効果的なので読者の方にだけ特別にお伝えします。
私はプレゼンテーションの時に、「もったいない」という言葉をよく使います。
「お客様の現状の問題点」と「ゴール(あるべき姿)」と「ギャップ」との関係性を一言でお客様にイメージさせる言葉が、「もったいない」なのです。本来、お客様の持つ強みを活かすことができれば、現在もうゴールが達成できていても良いにもかかわらず、それができていないのは、単にやるべきことをやっていなかったからです。やるべきことをやれば、ゴールが達成できているはずなのに、「もったいない」ということです。
お客様の現状を示し、解決策を提案した後、「もったいない」と言うと、ほとんどの案件を成約に導けます。
「せっかくいいものを持っているのに、活かし切れてないからもったいない」「あと、これだけがそろえば最強なのに、もったいない」という感じで使います。
「御社は商品力があって市場性もあるのに、今は戦略や営業力がないから売れてない。商品力や市場は持っているのに、もったいなくないですか?」
こう言われると、お客様も「確かに」とすんなり納得します。
このとき、「弊社の商品はいい商品なのに、買わないなんてもったいない」と自社の商品やサービスに結びつけないこと。あくまでお客様のいい面を誉め、その上で「もったいない」と言うから、お客様も「うちのことを分かってくれているんだ」と喜び、信頼関係が生まれるのです。
ある時はじめての提案に向かう新入社員が私にアドバイスを求めて来ました。「何か必殺技はないですか?」と。もちろん、付け焼刃の殺し文句などあるわけもないのですが、彼に「『もったいない』を10回以上言って来なさい」と指導しました。すると、驚くことに、905万円のサービスを一発クロージングしてきたのです。
それぐらい最強の言葉なのです。
皆さんもぜひ使ってみてください。使わないのは、「もったいない」ですから(笑)。
「コーチング」カテゴリーアーカイブ
《自尊心》
競争は、自分の中にある貧困意識から出てきます。世の中に十分なお金、チャンス、愛、友情がないと感じたときに、人は焦りを覚えます。そして、相手を蹴(け)落とそうとしたり、自分に鞭(むち)打って頑張ったりするのです。
ビジネスの世界に身を置いている人は、とくに激しい競争をしています。子供の頃からの思い込みで、「競争に勝たなければいけない」と信じているからです。学校時代から、隣の人より成績が上か下かの勝負に明け暮れます。会社でも、まわりの人たちと張り合うようになるのです。でも、なぜ競争するのかまでは考えません。
大人になれば、一人でやる仕事よりチームでやる仕事の方が、はるかに多いものです。一人で正解を出すことより、仲間で知恵を出し合って結果を出す能力が求められます。ですから、学校の試験でもチームで受けた方が将来の備えになると思うのですが、そんなことは許されないでしょう。インターネットで調べれば一分で出る答えを暗記させるよりも、チームでいかにクリエイティブな答えを出すかという能力を高めた方が、よほど将来に役立つと思います。
豊かに生きている人は、競争するより協力した方がはるかに早く成功できることを体験で知っています。また彼らは誰かが勝っている、負けているという「世界」に生きていません。
幸せな人は、相手が成功したと聞いたら、「ヤッター」と素直に喜べます。他人の成功が、自分のことのように嬉しいのです。それは、その人の成功が自分の成功にもつながっていることを、体験的に知っているからです。
幸せな人が競争しないのは、競争すると疲れるからです。自分以外の何かになるために、一生懸命頑張らなければいけなくなります。ビジネスを見ても、マーケットシェアを取り合う種類のビジネスでは、利益が出にくいものです。それよりオンリーワンになって多くの人に喜んでもらうようなビジネスの方が、ストレスなく利益を出すことができます。
競争は「自分は誰か」を忘れた時におきます。自然界でも、高い木、低い木、下草、コケはそれぞれ競争することなく共生しています。
自分が一番輝く場所を見つけてください。
《ピグマリオン効果》
誰でもほめられると気持ちがいい。その気持ちいい感じは、報酬系が刺激を受けているからこそなのだ。
映画『マイ・フェア・レディ』を御存じだろうか?
オードリー・ヘップバーンが演じるロンドンの下町に住む花売り娘のイライザが、言語学者のヒギンズ教授によって、気品あるレディに仕立て上げられるという話だ。この映画のなかで、身なりは貧しく言動にも品のないイライザに対して、ヒギンズ教授は「君はなんてすばらしいんだ」「君はとっても美しいね」と実際以上にほめていく。やがてイライザは本当に美しくなり、最後には立派な気品あるレディになる。
映画に限らず、「最近きれいになったね」などと言われ、ますますきれいになる女性は多い。
《聞く力》・・・阿川佐和子より
97歳の反論
「ちょっと、私の話も聞いてちょうだい」
驚きました。でも確かに伯母の言い分はもっともです。いくら高齢と言ってもまだ気力も体力もしっかりしています。昔に比べれば言葉を発するテンポが遅くなってはいるものの、人と会話が成立しないほど惚(ほう)けているわけではありません。
「あ、ごめん」
反省しました。
そのとき私は初めて、老人のテンポについて考えました。テンポが遅く、質問してもなかなか答えが返ってこないと、つい、「あ、惚(ほう)けているのかな」と思い込む。そしてこちらは何かと忙しいものだから、言葉が出てくるまで待っていられない。よって催促する。あるいは代わりに答えてあげる。
「何が欲しいの?」
「あ-……」
「お醤油(しょうゆ)? お醤油はあんまりかけない方がいいって、お医者様に言われたでしょ。塩分が強いんだから。薄味が身体にいいのよ」
「でも、明日は……」
「なに、明日? 明日のことは今、決めなくていいの。心配ないから、ね」
高齢者のゆっくりした話し方を聞いていると、最後まで我慢できず、つい先廻りしたくなります。でも、待っていられないのは一方的にこちらの都合であり、高齢者は自分の言い分を無視されて、おおいに傷ついていることでしょう。
高齢者に限らず、人にはそれぞれに話すテンポというものがあります。
ゆっくり話をする人にインタビューするとき、相手の答えが出てくる前に、こちらで予測して答えてしまうことがある。どちらかというとせっかちな私は、ときどき、やってしまいます。
答えるはずのゲストが答えない。しばしの沈黙が続く。どうしよう。この答えは諦(あきら)めて、次の質問に切り替えようか。それとももう少し待とうか。
迷うところです。迷った末、同じ質問を、別の言葉で言い換えることもあります。そうすることが正解である場合もありますが、あまり多用しない方がいい。
言葉を置き換えたり、答えを促(うなが)したり、一見、親切な聞き手のようですが、結果的には答えようとしている人を追い立てることになります。
ここは我慢大会。沈黙が続いた時、私はいつも、そう思います。テレビやラジオの仕事の場合は、放送中の沈黙は、放送事故と思われかねないので、あまり長く待つことができませんけれど、それ以外での対談なら、できるだけ待つ。
若いころはこれができませんでした。質問を見失ったと思われることが怖かったからです。答える側がテキパキ答えてくれないなら、すぐさま次の質問に移ることの方が有能だと思っていたのです。でも、この頃は、じっと待っていると、相手の心や脳みそがその人なりのペースで動いていると感じられることがあります。決して故意に黙っているわけではない。今、お相手は、ゆっくりと考えているのだ。そのペースを崩すより、静かに控えて、新たな言葉が出てくるのを待とう。その結果、思いもかけない貴重な言葉を得たことは、今までにもたくさんありました。
阿川佐和子 「聞く力」より
《主観的認知》 嫌われる勇希・・・岸見一郎著より
哲人: 事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。たしかに155センチメートルという身長は平均よりも低く、なお且つ客観的に測定された数字です。一見すると、劣等(れっとう)性に思えるでしょう。しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。
青年:どういう意味です?
哲人: わたしが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較
つまりは対人関係 のなかで生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。もしも比べるべき他者が存在しなければ、私は自分の身長が低いなどと思いもしなかったはずですから。あなたもいま、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているでしょう。しかし、それは客観的な「劣等生」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。
青年: つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと?
哲人: そのとおりです。私は友人の「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」という言葉に、ひとつ気づきを得ました。自分の身長も「人をくつろがせる」とか他者を威圧(いあつ)しない」という観点から見ると、それなりの長所になりうるのだ、と。もちろん、これは主観的な解釈です。もっといえば勝手な思い込みです。
ところが主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だというところです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委(ゆだ)ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。
青年: ライフスタイルを選びなおす、というあの議論ですね?
哲人: そうです。われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし、主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。そして私たちは主観的な世界の住人である。と・・・。
《承認欲求》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より
青年: ゴミを拾うのは「みんなのため」です。みんなのために汗をながしているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。だったらやる気も失せるでしょう。
哲人: 承認欲求の危うさは、ここにあります。いったいどうして人は他者からの承認を求めるか? 多くの場合、それは、賞罰(しょうばつ)教育の影響なのです。
青年: 賞罰教育?
哲人: 適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。褒めてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からも褒めてもらえなければ、憤慨(ふんがい)するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。
青年: 違います! 話を矮小化(わいしょうか)しないでいただきたい! わたしは教育を論じているのではありません。好きな人から認められたいと思うこと、身近な人から受け入れられたいと思うこと、これは当たり前の欲求です!
哲人: あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
青年: なんですって?
哲人: あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。
青年: い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です! 自分のことだけを考えて独善的(どくぜんてき)に生きろとおっしゃるのですか?
哲人: ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。
青年: 先生、あなたはやはりニヒリズムの毒に冒されている! 究極的には「わたし」のことを考えて生きている?それでもいい、ですって? なんと卑劣な考え方だ!
哲人: ニヒリズムではありません。むしろ逆です。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
《今、ここにスポットを》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より
青年: いいですか、先生は原因論を否定されるなかで、過去をみつめることを否定しました。過去など存在しない、過去に意味はないのだ、と。そこについては認めます。たしかに過去は変えられない。変えられるとしたら、それは未来だけです。
しかしいま、エネルゲイアなる生き方を説くことによって計画性を否定し、つまりは、自らの意思によって未来を変えることさえも否定しておられる。
あなたは後ろを見ることを否定しながら、前を見ることまでも否定しているわけです。そんなものは、まるで道なき道を目隠ししたまま歩けといっているようなものだ!
哲人: 後ろも前も見えない、と?
青年: 見えません!
哲人: 当然のことではありませんか。いったい、どこに問題があるのでしょう?
青年:なっ、なにをおっしゃいます!?
哲人:自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してください。このとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。
われわれの人生もまったく同じです。人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここに強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
青年: 強烈なスポットライト?
哲人: ええ。われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証です。
人生は連続する刹那(せつな)であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪(めんざい)符(ふ)を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうあるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです。
《自己肯定と自己受容》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より
哲人: たとえば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで本当の自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが
自己(じこ)受容(じゅよう)になります。
青年: 仮に60点だったとしても、悲観(ひかん)する必要はないと?
哲人: もちろんです。欠点のない人間などいません。優越性(ゆうえつせい)の追求について説明するときにいいましたよね?人は誰しも「向上したいと思う状況」にいるのだと。
逆にいうとこれは、100点の満点の人間などひとりもいない、ということです。そこは積極的に認めていきましょう。
青年: ううむ、ポジティブなようにも聞こえるし、どこかネガティブな響きも持った話ですね。
哲人: そこで私は、「肯定的なあきらめ」という言葉を使っています。
青年: 肯定的なあきらめ?
哲人: 課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と 「変えられないもの」を見極めるのです。われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。わたしのいう自己受容とは、そういうことです。
青年: 変えられるものと、変えられないもの。
哲人: ええ。交換不能なものを受け入れること。ありのままの「このわたし」と受け入れること。そして変えられるものについては、変えていく
〝勇気”を持つこと。それが自己受容です。
《言い訳として》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より
青年: もう先生もお気づきでしょう。まず挙げられるのは、この性格ですよ。自分に自信が持てず、全てに対して悲観(ひかん)的になっている。それに自意識過剰なのでしょう。他者の視線が気になって、いつも他者を疑いながら生きている。自然に振る舞うことができず、どこか芝居じみた言動になってしまう。そして性格だけならまだしも、自分の顔も、背格好も、どれひとつとして好きになれません。
哲人: そうやって短所をあげつらっていくと、どんな気分になります?
青年: まったく底意地(そこいじ)の悪い御方(おかた)ですね!それは不愉快になりますよ。まあこんなひねくれた男となんて、誰も付き合いたくないでしょう。わたしだって、身近にこんな卑屈(ひくつ)で面倒くさい男がいたら御免こうむります。
哲人:なるほど、もう結論が見えてきましたね。
青年:どういうことです?
哲人:ご自身の話でわかりにくければ、別の方の例を出しましょう、わたしは、この書斎で、簡単なカウンセリングもおこなっています。そしてもう何年も前の話になりますが、ひとりの女学生がやってきました。ええ、ちょうどあなたが座っている、その椅子です。
さて、彼女の悩みは赤面症(せきめんしょう)でした。人前に出ると赤面してしまう、どうしてもこの赤面症を治したい、といいます。そこでわたしは聞きました。「もしもその赤面症が治ったら、あなたはなにがしたいですか?」。すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。密(ひそ)やかに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。赤面症が治った暁(あかつき)には、その彼に告白してお付き合いをしたいのだ、と。
青年: ひゅう!いいですね、なんとも女学生らしい相談じゃありませんか。意中の彼に告白するには、まず赤面症を治さなきゃいけない。
哲人: はたして、ほんとうにそうでしょうか。私の見立ては違います。どうして彼女は赤面症になったのか。どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面という症状を必要としている」からです。
青年: いやいや何をおっしゃいますか。治してくれといっているのでしょう。
哲人: 彼女にとって、いちばん怖しいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。ところが、赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって…」と、可能性のなかに生きることができるのです。
青年: じゃあ、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られたときの保険として、赤面症をこしらえていると?
哲人: 端的にいうのなら、そうです。
《経験に与える意味》嫌われる勇気・・・岸見一郎著より
青年:目的にかなうものを見つけ出す?
哲人:そのとおりです。アドラーが「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する、と語っているところに注目してください。たとえば大きな災害に見舞(みま)われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによって何かが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
青年: じゃあ、先生はわたしの友人が好きこのんで自室に閉じこもっているとでも?自ら閉じこもることを選んだとでも?冗談じゃありません。自分で選んだのではなく、選ばされたのです。今の自分を、選択せざるをえなかったのです。
哲人: ちがいます。仮にご友人が「自分は両親に虐待を受けたから、社会に適合できないのだ」と考えているんだとすれば、それは彼のなかにそう考えたい「目的」があるのです。
青年: どんな目的です?
哲人: 直近としては「外に出ない」という目的があるでしょう。外に出ないために不安や恐怖をつくり出している。
青年: どうして外に出たくないのですか?問題はそこでしょう。
哲人: では、あなたが親だった場合を考えて下さい。もしも自分の子どもが部屋に引きこもっていたらあなたはどう思いますか?
青年:それはもちろん心配しますよ。どうすれば社会復帰してくれるのか、どうすれば元気を取り戻してくれるのか、そして自分の子育ては間違っていたのか。真剣に思い悩むだろうし、社会復帰に向けてありとあらゆる努力を試みるでしょう。
哲人: 問題はそこです。
青年: どこです?
哲人: 外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親が心配する。親の注目を一身に集めることができる。まるで腫(は)れ物に触るように、丁重に扱ってくれる。
他方、家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまいます。見知らぬ人々に囲まれ、凡庸(ぼんよう)なるわたし、あるいは他者よりも見劣(みおと)りしたわたしになってしまう。そして誰もわたしを大切に扱ってくれなくなる。…これなどは、引きこもりの人によくある話です。