《性格は変えられないけど行動は変えられる》

「形から入って心に至る」が型の持っている本質

日本の武道には、型があります。「型から入って心に至る」が型の持っている本質だと思います。
企業でのトレーニングやコンサルティングの際、「性格だからしょうがない」とか「性格を変えなければいけないでしょうか?」というような意見や、質問を耳にします。
私はいつも、「性格まで考えると重いでしょう。もっと気軽に考えて、性格ではなく行動を変えてみたら」とお話ししています。ただ、行動を変えるといっても、漠然としていて、つかみどころがありませんから、まずは基本となる3つの行動だけをお勧めしています。
その3つとは、「1日のプランニング」「仕事の棚卸し」「自分へのアポイント」の3つです。
いわば、この3つは、「お仕事道」の「型」と言えるものです。それも基本中の基本の型です。
仕事の達人になるのも、武道の達人になるもの基本は同じだと思います。毎日毎日、基本(「型」)を繰り返し、意識しなくともできるようになる(習慣として身につく)。そのとき、達人への第一歩が記されるのだと思います。
タイムマネジメントに関する言葉でも「継続は力」というのがありますが、継続すべきは、基本(「型」)だと思います。
武道と違い、ビジネスの世界では、今まで「型」に該当するものがなかったように思います。だから、行動を変えようにも、変え方がわからなかったともいえます。
まずは、「1日のプランニング」「仕事の棚卸し」「自分へのアポイント」の基本を継続し、行動を変えるための「型」を身につけましょう。達人へのスタートです。

《星野富弘名言集》

「そのままで字を書いたら、どうでしょう。」
その時、横むきになったわたしに、篠原さんが言ったのです。
横向きですから、頭を持ち上げる必要はありません。くわえたサインペンの先すれすれにスケッチブックを立て、頭を少し前にずらせば、ペンの先が紙につきます。くわえたペン先も、スケッチブックを握っている篠原さんの腕も、ぶるぶると震えていました。でも、書けたのです。
それが、あのシルバー仮面のスケッチブックの最初のページに書いてある、かたかなの「ア」でした。
ペンにまきつけて、くわえていたガーゼはだえきでぐっしょりぬれ、あまり力を入れていたので、歯ぐきから少し血が出て、ガーゼにしみていました。横からのぞきこんでいた母も、わたしと同じように歯をくいしばってしまい、ひたいに汗をにじませていました。
小学校へ入る少し前、はじめて自分の名前が書けるようになった時のように、嬉しくて仕方ありませんでした。あの時も、嬉しさのあまり、電信柱にまで、自分の名前を書いてまわったものです。目の前が、パァーッと明るくなりました。
次の日も、その次の日も、横向きになるのが楽しみでした。字が書けたといっても、ミミズがのたくったような字ですが、一字でも、一本の線でも、何にもできないと思っていたわたしにしてみれば、スポーツで新記録を出したような喜びでした。
一字ずつ増えていく文字を見ながら思いました。
もう一度、器械体操をはじめた時のような気持ちでやってみよう。
器械体操の美しい技も、いきなりできる人はいません。まったく見栄えのしない、一つひとつの基礎になる技を、毎日毎日練習して、正確に身につけ、それを積み重ねて初めて、あの美しい技となるのです。
わたしの書く文字も、今はへなへなして、見かけの悪いものだけれど、時間をかけて、一本の線、ひとつの点をしっかりと書けるように練習していけば、いつかきっと、美しい字が書けるようになると思いました。

病院の裏庭でペンペン草を見ていて、その三角の実が、小さなこぶしのように見えた時のことを、こんな詩にしてペンペン草の絵に添えました。

神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたらそんな日が本当に来るような気がした

《教えることの目標》

「相手の上達」が幸福感を生み出す

いま、「教える」という行為には人気がありません。
教えるという言葉には、どこかしら人を抑圧(よくあつ)し、管理するというイメージが染みついています。教えることで自由や個性が押さえつけられて、いまのような日本社会の停滞(ていたい)が生まれているという論(ろん)も多くなっています。
けれども、私は、そうは思いません。「教える」イコール「管理」というイメージは、下手な教え方をする人がいることによって、根付いてしまったものです。
そもそも、教えるということの目標は、教えられている側が「できるようになること」です。
その目標が達成されたときには、教えた側、教えられた側、双方に幸福感が生まれます。
なぜなら、人間にとって、できなかったことができるようになる、つまり「上達する」というのは限りなくおもしろいことだからです。教えられた側からすれば、自分に能力があることを実感でき、身につけた技で自分も楽しみ、人を喜ばせることもできる。こんなに楽しいことはないでしょう。
また、教えた側は。教えた相手に喜ばれることで、とても大きな幸福感を得られます。
ですから、まず最初に私が訴えたいのは相手がきちんと上達するような上手な教え方ができるのならば、「教える」ことは決して悪いことではないということです。
教えるということは、本来、教える側、学ぶ側ともに、幸福感を生み出す行為なのです。

上達のためには「練習」をさせろ

人に何かを「教える」にあたって、教える側は説明するだけで相手は聞くだけ、というスタイルには限界があります。話を聞いているだけでは、部下は決してできるようにならないものなのです。
部下の意識を高めるためには、当然、「説明」も必要です。しかし、部下を上達させるためには、「練習させる」ことが必要です。
練習をさせて、自分の知識や技を「移して」いくわけです。ですから、私は、教えることの中心は、練習メニューをやらせることにあると考えています。
教えるということの最終目的を「相手ができるようになること」だとすると、学ぶ側ができるようになったかどうか、これだけが教えたことの評価なのです。
上司がうまい課題を設定すれば、部下は課題がないときよりもむしろ生き生きしてきます。ですから、上手な課題を与える、使命感を与えるというのがポイントなのです。
使命感を持ったときに人間はいちばん生き生きしますし、充実感を持ちますから、なんとかできるものなのです。「自由にやってごらん」という人もいますが、自由に考えている時間というのは、私は実は無駄な時間だと思っています。それよりも、「とにかく答えを出せ!」「アイディアを出せ!」と強いミッションを与えるほうが、教わる側も充実します。
それが達成できたときの充実感、あるいは達成しようと努力している最中の充実感を与えることこそが「教える」行為なのです。

《褒めるとおだてるの違い》

私が気になるのは、「褒める」と「おだてる」の違いが分からない上司がいること。このふたつは似ているようで、まるで違うものです。
そもそも「褒める」というのは、相手のいいところを評価することです。つまり、きちんと部下を褒められる上司とは部下のよいところを発見できる上司のこと。これができない上司は、成功するどころか、上司としての役目を果たすことができません。

10点満点に対して「すごい」と言うのは「褒める」ことです。4点、5点を「すごい」と言うのは「おだてる」ことになります。能力のない部下を持ち上げているだけで、心の底からの賞賛ではありません。

おだてる上司の下にいる部下はどうなるのでしょう。能力もないのに「すごい」とおだてられて、つけあがり、10点満点中4点の能力しかないのに「これでいいや」と満足してしまいます。こうして「使えない部下」ができあがり、チームの戦力は伸びません。「使えない部下」の元凶は、おだてる上司なのです。
もし自分の未熟さを自覚している部下だったら、上司をバカにするようになるでしょう。10点満点で4点、5点しかないと自覚しているところを褒められたら、上司を見る目を疑います。そんな上司に従いたいと思う部下はいません。結果、やはりチームの戦力は伸びないまま。部下の本音に気づかない上司は、やはり「使えない部下」を生み出すことになります。

すごいところをすごいと言うのが「褒める」。そして、ダメなところをダメだと言うのが「叱る」です。「叱る」は「褒める」の正反対。それだけ分かっていれば十分です。

ちなみに「部下が失神するぐらい叱った」という逸話が残っているのは松下幸之助さんです。会社の存亡にかかわるようなミスなら、それぐらい厳しくもなるでしょう。また、それぐらいの情熱を持って部下に接するのが経営者であり、本当の上司なのです。

《リーダー育成》

 限られた人材の確保しかできない中小企業にとって、人材育成は大きな課題の一つだ。特に部署やチームの中心的存在となるリーダーが育つかどうかによって、売上拡大、業務効率改善、品質の向上など日々の業務に大きな影響が出てくるため、その育成は必要不可欠な課題となっている。
 育成にあたって、まずすべきことは経営者の意識改革である。リーダーに期待するあまり、いつも注意してばかりだと育つものも育たない。部署やチームの部下たちがリーダーをリスペクトできるような雰囲気をつくり、経営者自身が伴走して育てていくという強い意識を持つことが必要になってくる。
 具体的な育成のステップとしては、最初に期待するリーダーの役割と責任を明確にすることだ。「リーダーだから、現場をしっかりまとめてほしい」という抽象的なことではなく、労務管理、月次決済資料の作成、部下の評価の数値化など、期待する具体的ね業務内容を明確にする。そこに、求めるリーダーとしての具体的な資質、行動特性「先見性、リーダシップ、コミュニケーション力など」を加え、役割と責任を明示できるようにする。欧米の企業では、これらの内容をジョブ・ディスクリプション(職務記述書)として書面化していることが多く、国内の中小企業でも活用してみるといいだろう。
 役割と責任を明確にした後は、リーダーの評価基準を整理する。実際、外部のリーダー研修やセミナーなどに参加している人からの「結局、どう評価されているかわからない」という声が多いのが現実。これはリーダーとして「何をどう評価する」という基準が設けられていない、もしくは設けられているとしたら上手く伝わっていないということに起因している。
 評価基準まで定まれば、実際に教育対象者の能力の棚卸を行う。これによって、最初に明確にしたリーダー像(役割と責任)と、リーダーとして期待している人材とのギャップを洗い出す。
 このギャップを埋めるのが育成である。教育対象者の能力の棚卸をした結果から目指すべきリーダーになるために足りない能力は何か、そのためにどういった育成プログラムを組むかを計画する。この時注意したいのが、OJTとOFFJTの両論で育成することだ。日々の仕事を通じて現場で育成していくOJTは中小企業の得意とするところだが、それだけでは激変していく市場に通用する人材の育成は難しい。外部の研修会や講演会などで、自社だけでは得られない最新の知識、技術、情報などを得るOFFJTも活用することが重要だ。
 OJTとOFFJTを上手く活用していく計画ができれば、いよいよ実行に移る。教育対象者には、その目的を伝えておき、具体的な課題を理解させておく。本人の問題意識が低いと、育成プログラムの効果も半減してしまうので注意が必要だ。
 育成プログラムを終えれば、すぐに現場での実践に移りがちだが、ここで忘れてはならないのが、育成プログラムのフィードバックを経営者が受けること。リーダーになるべき人材が、何かを学び、どのように成長したのか。経営者がこれを理解したうえで、今後リーダーとしていかに生かしていくか、につなげなくてはいけないからだ。
 このフィードバックがあった後に、初めてリーダーとして現場に展開させる。以降は、常に成長過程を追いながら、さらにブラッシュアップさせていくことが重要だ。
 

《貧乏ひまなし》

あまりにも多数の例外事象が発生すると、組織内を上下に流れる情報が過剰になり、上司たちが自分の頭で考える時間がどんどん減っていってしまう。これが極端なところまでいくと、トップ・マネジメントまで日常業務の例外処理に追い回されるようになる。その企業が長期的に存続し、成長していく上で必要なことを考える人が一人もいなくなってしまう。

そもそも人間は、目の前に大量のルーチンワークを積まれると、その処理に追われ、創造的な仕事を後回しにしてしまう傾向がある。創造的な仕事とは、仕事のやり方自体を根本から変えるとか、長期的な展望を描いてみるといった作業のことである。「ルーチンワークは創造性を駆逐する」。ハーバード・サイモンの言う意志決定のグレシャムの法則(計画のグレシャムの法則)である。つまり、日々のルーチンな仕事に追われている人は、ルーチンな仕事の処理に埋没して長期的な展望とか革新的な解決策とかを考えなくなってしまう、ということである。

膨大なルーチンワークが存在し、それに追われている状況というのは、背後に何らかの構造的な要因があることを意味しており、本当は何が本質的に問題なのかを考えなくてはならないはずなのに、それを考える余裕がない。「貧乏ひまなし」だから、「貧すれば鈍する」のである。(もちろん逆に、暇が多くなった組織では、「小人閑居して不善を為す」という問題に直面することもある。忙しすぎるのも、暇なのも、どちらも問題がある)。

《見える化とモチベーション》

キャノンでは、生産革新によるカイゼン活動が日常活動の中に埋め込まれている。なかでも複写機をはじめとする映像事務機を生産する茨城県の阿見(あみ)工場では、「一秒の視点」をスローガンに、作業効率の徹底追及が続けられている。
カイゼンを継続させるための「月一改善」や「週一改善」「品質朝市」といった改善を実践する「場」が仕組みとして埋め込まれ、工場の幹部と現場が一体となって改善に取り組んでいる。
こうした仕組みに加えて、キャノンが重視しているのが「人づくり」である。
カイゼンは現場の主体性・自立性がなければ定着しない。ほかの人から言われてやっているというカイゼンは長続きしない。現場の作業者自身が当事者意識を持ってカイゼンに取り組むかどうか・・・それが大きな鍵となる。
阿見工場では、現場の自立性を喚起(かんき)するために、カイゼンの「効果のみえる化」に熱心に取り組んでいる。
同工場では高級複写機を「セル生産方式」で生産している。「セル」とは「細胞」の意味でひとから数人のグループが部品の取り付け、組み立て、加工、検査までの全工程を自己完結的に行う生産方式である。現場の従業員一人ひとりの自発性、創意工夫こそがセル生産の要である。
セル生産に取り組んでいる作業者は毎回、目標生産台数に到達した時刻を実績として記録する。それを前回の記録と比較して、どれだけ作業の効率が上がったかを認識し、その理由を解析する。
すると、「部品の配置方法を変えてみたら、昨日より一分早く目標台数をクリアーできた」などの成果が数値としてはっきり「見える」ようになる。自らの知恵・創意工夫が具体的な効果として「見える化」されることで、作業者の意欲はさらに喚起されることにつながるのである。
効果を「記録」することはカイゼンの基本だ。カイゼンに取り組むと、知恵を出すことばかりに目が行き、どうしても記録がおろそかになってしまう。効果があってもなくても、記録を残すことが現場改善の基本中の基本である。
キャノンの生産現場では、作業者自らが、自分の作業改善のために「記録」を残し、そして、効果が上がったものについては、組織の知恵として組織内に「見える化」することが徹底されているのである。

《見える化とは、見せる化》

見たくなくても目に飛び込んできてしまう・・・そんな「見える化」の状態をつくり出すには、どうしたらよいだろうか。
たしかに、アンドンに代表されるような仕組み・仕掛けを工夫することは、きわめて重要である。トヨタにはアンドンだけでなく、「稲妻(いなずま)チャート」や「星取表」といった独自の「見える化」の仕掛けが存在し、そうした仕掛けをより効果的なもの、より利便(りべん)性の高いものにするためにITも活用されている。
では、「見える化」の仕組み・仕掛けを考案し、導入しさえすれば、「見える化」は定着するのだろうか。
残念ながら、仕組み・仕掛けだけでは実際に「見える化」は機能しない。
多くの場合、「見える」ようにするためには、「見せる」という意志や行動が必要となる。「火事場」理論のように、火の手という異常がいきなり目の前にあらわれることもあるが、企業活動においては、そうした異常や問題が露見する前に、小さな変化や予兆を暗示する事象(じしょう)や数字が必ずあるはずだ。それをつかみ、「見せる」ようにしなくてはならない。
「見える化」とは「見せる化」であり、「見せよう」という意志と知恵がなければ、「見える化」は実現できないのである。
そして、「見せよう」とする主体はあくまで「人」である。当たり前のことであるが、機械やIT自体には「見せよう」という意志はない。
真の「見える化」を実現するとは、「見せる化」を推進することであり、そのためには、「見せよう」とする「人づくり」こそが鍵なのである。

《SECIモデル》

 世界の経営理論・・・入山章栄著より

 『直観の経営』で野中教授が語るのは、SECIモデルは現象学と親和性が高い、ということだ。これは、フッサールやメルロ・ポンティなどが確立した哲学の一種である。端的に言えばそのエッセンスの一つは、「主体と客体の同一性」にある。従来のデカルト的な二元主義の科学観では、分析相手や対話の相手はあくまで「自分から完全に切り離された客体」であった。一方の現象学では、主体と客体の一致を唱える。まさに「他者との共感」だ。先に述べたように、共感はSECIモデルの共同化に不可欠なプロセスだ。
筆者が野中教授と対談した時もまさにこの話題になった。そこで野中教授が語ったのは、稲盛和夫氏が創業した京セラでのコンパの模様である。

 京セラのコンパというのは、本社の12階にある百畳敷きの和室でやるんです。畳の部屋には理由があって、椅子だと自由に移動できず、身体の共振が起こらないからなんです。
 その部屋で肩を寄せ合い、みんなで一つの鍋をつつき、酒を飲みながら本音で対話をする。手酌は御法度。自分の盃に注ぐのはエゴイズムの象徴だということで、ひたすら相手に注ぎまくる。それをみんなでやっているうちに、どれが誰の盃かわからなくなって、考え方もme thinkingからwe thinkingになっていく。

 あのような会社では、三日三晩飲みまくるとか、本当にやるんです。そうすると、もう幼児のような状態になって、本質を求める「Why?」の意識が脳の感覚質に入ってくる。徹底的に議論を重ねるうちに、地下水のような共通感覚に到達し、互いに「そうとしかいいようがないよね」というところまで行き着くんです。

 おもしろいのは、ビジネスジェット機「ホンダジェット」のプロジェクトリーダーだった藤野道格さんの話です。
 アメリカでは酒を飲みながらワイガヤしたのかと私が聞いたら、そうじゃないと。酒を飲まなくても、まっとうに向き合えば全人格的な議論はできるんだと。日常の仕事の中で矛盾を解決するときは、必ず1対1で全人格的に向き合ってやる。
 それがワイガヤの本質なんだと話していました。

 こうした、まさに全人格をかけた知の格闘をするとこで、やがて互いが「我、汝」の関係になっていき、現象学の主張するように、主体と客体が一体化していくのである。結果、共感が発生し、共同化が進んでいく。
 この意味で、野中はいま企業で導入されているブレーンストーミングに懐疑的だ。実際、ブレストからはなかなかアイデアが出ないという経営学の研究結果については、前章で述べた。必要なのは、「共感・共同化に到るまでの徹底的な知的コンバット」なのだ。コンバットをするには、快適なコワーキングスペースでゆったりと椅子に座って、ポストイットを使って多人数で行うブレストは「快適すぎる」のだ。
 そう考えると、いまの時代、一対一で徹底的に、何日も何日も知的コンバットをしているビジネスパーソンはどれくらいいるだろうか。よく考えれば、成功した企業の創業者は2人組であることも多い。ソニー創業時の井深大氏と盛田昭夫氏や、ホンダの本田宗一郎氏や藤沢武夫氏は、毎日のように2人で知的コンバットをしていたのではないか・・・。

《限界はあるのか》

 ダスキンの種まき新聞に興味深い記事がありましたので、紹介します。

 仕事やスポーツで「限界」という言葉を使ってしまうことがありますが、本当に限界はあるのでしょうか。
 
 もちろん一生懸命に努力しても、成果が現れないことはあります。それでも諦めずに目標に向かって努力している間は、「限界」を意識することはないように思います。

 私は高校時代、日々卓球の練習に明け暮れていました。優勝を目指し、厳しい指導を受けながら練習するなかでは「限界」を意識することはなく、常に「もう少し頑張れる」という気持ちがありました。結果として優勝出来なかった時も、「次回は優勝出来るよう頑張ろう」と、さらに練習に励んだものです。

 仕事やスポーツだけでなく、さまざまな事柄に対して「出来ない理由」を探して諦めることは出来ます。反対に、「もう少し出来る」と、努力し頑張ることも出来ます。どちらも、自分の心が決めること。望んでいた結果が出なくても、その努力した時間が大切だと思います。

 もう無理かなと思った時に、「限界」だと諦める心。それでも「もう少し頑張れる」と努力する心。どちらも決めるのは自分自身ですが、「限界」を決めず努力することが成長につながるのではないでしょうか。

 一度きりの人生、限界を決めずに前向きに生きていきたいものです。

                                 
 株式会社 ダスキン
 会長  山村 輝治